本の森/音の海

本と音楽についてのノート

郡司ペギオ幸夫「天然知能」(1)

 

天然知能 (講談社選書メチエ)

天然知能 (講談社選書メチエ)

 

 

 

この本に養老孟司さんが寄せた推薦コメントには、「一見やさしく書かれていますが、バカにしてはいけません。世界の見方を変えてくれます。」とある。なるほど確かに平易なことばで記されているのだけれど、どうしてこれがかなり手強い。自分の理解を整理するためにも、読み進めながら適宜まとめ、感想を綴っていくことにしよう。 

 

前書きにあたる「ダサカッコワルイ宣言」からもう手強い。

目次にはマネコガネや、イワシ、オオウツボカズラといった昆虫や動植物名で章立てされているから、天然知能とは人工知能の対極にあたる、自然の本能に類する知性のことなのかと思っていたら、冒頭一行目で早くも否定されてしまう。では、天然知能とはどういう知性を指すのか。

「徹底した外部から何かやってくるものを待ち、その外部となんとか生きる存在、それこそが天然知能なのです。」というのがまず示される定義だけど、これでは一体なんのことやら、さっぱり判然としない。そもそも本書で述べられる「外部」というのが、「想定外で、何をするかわからない」もので「知覚できないが存在する」ものなのだ。「考えるな、感じろ」の世界である。

 

こうした「外部」を考える意義は、「人工知能」の定義が述べられることで、ある程度見えてくる。

本書での「人工知能」とは「自分にとって意味のあるものだけを自らの世界に取り込み、自らの世界や身体を拡張し続ける知性」のことを指す。こうした知性にとっての「外部」とは「自分にとって都合のいいものが集められた」ものになる。

 

どこまで拡張しても自分にとって都合のいいものしかないなら、これは快適であるだろう。そして、現在目にすることが多い「知」の働きはたいていがこうした「人工知能」的なものではないだろうか。それに対して、見たくないもの、自分の興味のスコープから外れるものも感じ、考えようとする知の働きが天然知能的といえそうだ。真の意味での外部をスマートにスルーするのではなく、感じとり共存を図るのは、なるほど「ダサカッコワルイ」ことのような気がする。 

 

このように「知覚できないが存在する外部を、受け容れる知性」のことを本書では「1.5人称的知性」と呼ぶことにしているのだけど、これまたつかみづらい呼び方だ。なぜそう呼ばなくてはいけないのか。この概念がどのように展開していくのか、その答えは本論を読みながら考えるしかない。

 

…ということで、ようやく前書きの終わりまできた。今後は各章を読み終える毎に記事をまとめていく予定。