本の森/音の海

本と音楽についてのノート

マイベスト講談社文芸文庫:塚本邦雄「王朝百首」・「百句燦燦」

 

王朝百首 (講談社文芸文庫)

王朝百首 (講談社文芸文庫)

 

 

 

百句燦燦 現代俳諧頌 (講談社文芸文庫 つE 2)

百句燦燦 現代俳諧頌 (講談社文芸文庫 つE 2)

 

 

 

講談社文芸文庫の登場は鮮烈だった。講談社のHPで創設時のラインアップを確認すると、丸谷才一忠臣蔵とは何か」、倉橋由美子「スミヤキストQの冒険」、中上健次「熊野集」等の強力な作品が並ぶ。菊池信義による装丁も書店の棚でひときわ目をひくものとなっていた。中でも、当時中上健次作品の文庫化は稀だったと記憶しているので、それだけでも講談社の気合いが伝わってくるような気になったものだった。

その後も石川淳吉田健一という、ぼくの2大贔屓作家の作品をはじめとして、これも文庫になったのか、と驚かせてくれる刊行が続いた。なかでも快哉を叫びたくなったのが、塚本邦雄の編纂したアンソロジーが続々と出現したことだ。「定家百首」は以前に河出文庫でも刊行されていたけど、「王朝百首」、「百句燦燦」、「西行百首」、「珠玉百歌仙」など枚挙にいとまがない。ぼくも全部を読んだわけではないけれど、どれを取っても読者を眩惑させ、陶然とさせる名選集で、ひたすら圧倒された。

塚本邦雄が現代短歌の巨人だったことはいうまでもないけれど、アンソロジストとしてもとびきりだったことがこれらの書物を読むと分かる。松岡正剛さんも「千夜千冊」で塚本をとりあげたときに絶賛していた。

こうしてぼくは「歌を見ている塚本邦雄という塚本像」に、新たに出会うことになったのである。ぼくがわざわざショーウィンドウの外に出たのに、塚本は塚本で、もっとどでかい「哀惜日本のショーウィンドウ」とでもいった光景を次々に披露していったからである。たとえば、『百句燦々』『王朝百首』『雪月花』『詞歌美術館』というふうに‥‥。
 わかりやすくいえば、選者および評釈者としての編集的塚本像の華麗な登場なのである。この才能はそうとうに図抜けていた。超編集力である。塚本の歌の選びっぷり、並べっぷり、そこからの擬同型な思いの合わせっぷり。こんな芸当をできる者は、歌人はもとより、文学者や編集者にもまったく見当たらないというほどの、絶妙だった。

1270夜『星餐圖』塚本邦雄|松岡正剛の千夜千冊

 

塚本のアンソロジーは、例えば大岡信による「折々のうた」のような、読者を日本詩歌の沃土にやさしく誘うようなものではないように思う。もちろんそうした側面もあるのだけど、それ以上に伝わってくるのは、塚本の日本詩歌の伝統に対するあり余る敬意と、現役の歌人としてその伝統を受け継ぐ覚悟であり、対決の姿勢だ。その塚本の姿勢が特に色濃いのが「王朝百首」と「百句燦燦」だろう。

「王朝百首」は小倉百人一首に秀歌はない、という認識から生み出された、綺羅星のような和歌が並ぶアンソロジーだ。さらに塚本は評釈だけではなく、現代語訳ならぬ“現代詩訳”をつけ加えた。その大胆な詩訳については、ぜひ手に取って確認して欲しい。

「百句燦燦」は現代俳句のアンソロジー。現代俳句は歌人である塚本にとって宿敵であると同時に、日本語の美を探求する同志でもある存在だ。塚本が選んだどの一句、評釈をみてもこうした塚本の気概が読者に迫ってくる。

これらのアンソロジーが大ベストセラーとなって、一家に一冊といった状態になることは、おそらくこれからもないだろう。けれども、日本語の美しさ、富を味わいたい人にとっては、このうえない宝物となるはずだ。

 

ただ私の欲しいのは一読目を射、たちまち陶酔に誘われ、その感動が逆に時代、人物、作歌技法の探求に向って行くという天来の妙音である

 

 (「王朝百首」“はじめに”より)