郡司ペギオ幸夫「天然知能」(2)
なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる 西行
当初は各省ごとにまとめと感想を書く予定だったけど、なかなか時間がとれないので、全体を通して読んだ感想をざっくりと。
面白かったかどうか、と聞かれれば面白かったと答える。けれども書かれていることを全てすずしく飲み込むことができたか、となるとそうはいかない読書だった。
さて、この本ではまず知能の3つの様態が述べられている。まずは自分が知覚できたデータのみを対象とする一人称の「人工知能」。次に「自然科学的思考一般」であり、謎や問題として把握されたものに興奮し、それを理解しなくては気がすまない三人称の「自然知能」。そして世界をあるがままに受け入れ、自分を外に開いていくのが、本書の主題である一・五人称の「天然知能」となる。
人工知能と自然知能の共通点はどちらも世界を己の内部化し、データとして集積する点とにある。そうなるとデータ化の速度においては人工知能の方が圧倒的なので、自然知能はかなわない。そこで「外部に踏み込み、その外部を招き入れることで、物事の理解を実現する」天然知能こそが人工知能と自然知能の対立を乗り越えるありようとなる。
外部は知覚できないけれど、確かにあると感じられるもの。それにいかに自分を開いて世界を感じ取っていくのがこれからの人間の知性の在り方ではないかというのが著者のメッセージとして受け取った。冒頭に引用した西行の和歌など、まさに天然知能を詠んだものとはいえないだろうか。
この認識を出発点として、著者は天然知能の概念をぐっと拡大し、掘り下げていく。とりわけ終盤で述べられる、自由意志・決定論・局所性がトリレンマの関係にあるとして、意識の構造の解明に踏み込んでいくくだりは、難解ながらもスリリングな展開だった。
とても示唆に満ちた内容の本なのだけど、最初に触れたように自分の中で少し引っかかっていることがある。外部についての説明を読んだときに、すぐ思い浮かんだのは「無意識」と「神」のことだった(こうして謎を自分の知っているものに置換して理解しようとするのは、はなはだ「自然知能」的なのだけど・・・)。
「無意識」についてはある程度の答えが本書に語られていると思う。そうなると「神」はどうなるか。信仰というのは人間が古来から積み重ねてきた「天然知能」の方法であるのではないか。このことが読んでいる途中からずっと気持ちの中に残っている。先に、すずしく飲み込むことができたとは言えないと書いたのはこの問題があるからだ。
とはいえ、これは不満ではない。著者から与えられた宿題のようなものだ。これからじっくりと考えていくことにしよう。
3月の読書
月の後半から仕事が忙しくなってきたので更新が滞ってますが、面白い本にはいろいろ出会ってるので、なるべく記録として残しておきたいですね。
「天然知能」はもうすぐ読了。
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郡司ペギオ幸夫「天然知能」(1)
この本に養老孟司さんが寄せた推薦コメントには、「一見やさしく書かれていますが、バカにしてはいけません。世界の見方を変えてくれます。」とある。なるほど確かに平易なことばで記されているのだけれど、どうしてこれがかなり手強い。自分の理解を整理するためにも、読み進めながら適宜まとめ、感想を綴っていくことにしよう。
前書きにあたる「ダサカッコワルイ宣言」からもう手強い。
目次にはマネコガネや、イワシ、オオウツボカズラといった昆虫や動植物名で章立てされているから、天然知能とは人工知能の対極にあたる、自然の本能に類する知性のことなのかと思っていたら、冒頭一行目で早くも否定されてしまう。では、天然知能とはどういう知性を指すのか。
「徹底した外部から何かやってくるものを待ち、その外部となんとか生きる存在、それこそが天然知能なのです。」というのがまず示される定義だけど、これでは一体なんのことやら、さっぱり判然としない。そもそも本書で述べられる「外部」というのが、「想定外で、何をするかわからない」もので「知覚できないが存在する」ものなのだ。「考えるな、感じろ」の世界である。
こうした「外部」を考える意義は、「人工知能」の定義が述べられることで、ある程度見えてくる。
本書での「人工知能」とは「自分にとって意味のあるものだけを自らの世界に取り込み、自らの世界や身体を拡張し続ける知性」のことを指す。こうした知性にとっての「外部」とは「自分にとって都合のいいものが集められた」ものになる。
どこまで拡張しても自分にとって都合のいいものしかないなら、これは快適であるだろう。そして、現在目にすることが多い「知」の働きはたいていがこうした「人工知能」的なものではないだろうか。それに対して、見たくないもの、自分の興味のスコープから外れるものも感じ、考えようとする知の働きが天然知能的といえそうだ。真の意味での外部をスマートにスルーするのではなく、感じとり共存を図るのは、なるほど「ダサカッコワルイ」ことのような気がする。
このように「知覚できないが存在する外部を、受け容れる知性」のことを本書では「1.5人称的知性」と呼ぶことにしているのだけど、これまたつかみづらい呼び方だ。なぜそう呼ばなくてはいけないのか。この概念がどのように展開していくのか、その答えは本論を読みながら考えるしかない。
…ということで、ようやく前書きの終わりまできた。今後は各章を読み終える毎に記事をまとめていく予定。
平成の邦楽30枚. and more
思い出すのが結構たいへんでした・・・。
平成元年(1989) 細野晴臣/Omni,Sightseeing
平成2年(1990) ZABADAK/遠い音楽
平成4年(1992) ヤン富田/Music For Astro Age
平成5年(1993) Pizzicato Five/BOSSA NOVA 2001
平成6年(1994) 小野誠彦/Bar del Mattatoio
平成7年(1995) かの香織/裸であいましょう
平成8年(1996) 佐野元春/フルーツ
平成9年(1997) 電気グルーヴ/A
平成10年(1998) 坂本真綾/DIVE
平成11年(1999) 高橋幸宏/The Dearest Fool
平成12年(2000) カーネーション/LOVE SCULPTURE
平成13年(2001) MOONRIDERS/Dire morons TRIBUNE
平成14年(2002) 山下達郎/Rarities
平成15年(2003) コシミハル/CORSET
平成16年(2004) 高橋鮎生・太田裕美/RED MOON
平成17年(2005) CHORO CLUB feat. Senoo/ ARIA The ANIMATION
平成18年(2006) カヒミ・カリィ/NUNKI
平成19年(2007) 青柳拓次/たであい
平成20年(2008) Lamp/ランプ幻想
平成21年(2009) YOKO KANNO SEATBELTS /Space Bio Charge
平成22年(2010) blue marble/ヴァレリー
平成23年(2011) World Standard/みんなおやすみ
平成24年(2012) 伊藤ゴロー/GLASHAUS
平成25年(2013) 三宅純/Lost Memory Theatre act 1
平成26年(2014) 大瀧詠一/Each Time 30th Edition
平成27年(2015) 鈴木慶一/Records and Memories
平成28年(2016) Perfume/Cosmic Explorer
平成29年(2017) 坂本龍一/async
平成30年(2018) THE BEATNIKS/EXITENTIALIST A XIE XIE
そして・・・
佐々木閑「大乗仏教 ブッダの教えはどこへ向かうのか」
いやあ、面白かった。大乗仏教についてこんなに明快に解説した本はこれまで読んだことがなかった。
まずは釈迦のもともとの教えが「自分を救いの拠り所と考えた」ものに対し、大乗仏教では「外部の不思議な力を拠り所と考えた」と区別するところからスタート。そしてそのような違いが生じた理由について「理にかなってさえいれば、それは釈迦の教えと考えてよい」というアイデアが登場したからだと説いていく。
そして大乗仏教の目的は悟りを開いて「ブッダになること」というのだけど、ではどうすればそんなことができるのか。この本によると、それは「ブッダと出会い、それを崇めること、供養することがブッダになるための近道である」となる。しかし供養はともかく、ブッダに出会うなんてどうすればできるのか。この難問にどう答えを出したのかが「大乗仏教の面白さであり、真骨頂なのです」ということになる。
これを踏まえて主な経典の解説に進むのだが、ここからがこの本の読ませどころ。その例をざっとかいつまんでいこう。
1)〈空〉について
空とは、コンビニのポイントカードで貯まったポイントがコンビニだけではなく、他の目的にも利用できるように「善行によって得たエネルギーをブッダになるための力に振り向けることができる、より上位のシステム」
自動車にたとえると『法華経』も「般若経」も同型のエンジンを積んでいる」が、「久遠実成」という考えを作り出したことにより、『法華経』のエンジンにはターボチャージャーが搭載された。
3)パラレルワールドの考えを導入した「浄土経」
「浄土経」では、なんとかブッダと今すぐ出会える方法はないものかと考えた末に「私たちが生きているこの世界とは別の場所に、無限の多世界が存在している」とまずはとらえることにした。
4)バーチャルはリアルであるととらえた華厳経
宇宙に存在する無限のブッダがお互いにつながっていると仮定すると、この世界に現れた一人のブッダを供養しただけで無限のブッダを供養したことになる。
他にもいろいろあるけれど、とりあえずここまで。本書では各経典の解説だけではなく、さらに大乗仏教の今後についても考察している。ここでの著者の考えには、個人的に異を唱えたい部分もあるのだけど、それはもっと考えていきたい。ともあれ、刺激的な読書体験だった。
細野晴臣「HOCHONO HOUSE」
思えば2005年のハイドパーク・フェスが始まりだったのだろう。
かねてから“習作”と公言していたの曲を、奇跡的に豪雨があがった狭山のステージで歌ったとき、細野さんは歌うことの楽しさに目覚めたという。そして、いつかこのアルバムを歌の楽しさを知った今の自分に『HOSONO HOUSE』よってつくり直してみたい、という気持ちが胸中に芽生えたのではないだろうか。
それから15年近くの歳月を経て、『HOSONO HOUSE』を全面的にリメイクした、この『HOCHONO HOUSE』が届けられた。
この間、細野さんは信頼できるメンバーとアンサンブルを磨いて、ライブの積極的に行っていた。そこで聴けるカバーを中心としたブギ・ウギは心地よく、にこやかに楽しめるものだった。
とはいえ、ストラヴィンスキーもかくやと思わせる、かつての変幻ぶりを知っている身としては、そろそろ違う路線を・・・と思っていたのも確か。だから本作が細野さんひとりで制作されているというニュースを知ったときは我が意を得た思いだった。
はたして本作はこれまでの路線と一線を画しながらも、細野さんでなくてはつくれないチャーミングなアルバムとなっている。本人の解説を読むとかなり制作には難航したらしいのだが、その苦労を感じさせない、肩ひじ張らない音楽だ。ぱっと聴いたときはシンプルに響くサウンドも聴き込むとじわじわとうま味がにじんでくる。打ち込みの曲ではファンクネスを感じさせるのもうれしい。他にも過去のライヴ音源あり、インストに改変した曲あり、歌詞を一部変えた曲ありと様々なことを試みているのだけど、一貫して流れているのは細野さんならではのユーモアとぬくもりだ。そして何より、穏やかさを湛えた歌が良い。
本作は細野さんのヴォーカル路線の到達点であるとともに、新たな出発点となるのではないだろうか。トータルタイムが37分なので気軽にリピートしながら、心は早くも細野サウンドの次なる展開を思い描いている。
安部公房「箱男」
前作「燃えつきた地図」の主人公は物語の最後に名前を失い、失踪者となった。
そして「箱男」の語り手は物語のはじめから名前を失った存在となっている。また、箱男は通常は他人に意識されない存在として描かれているので、失踪者であるといえるだろう。
「燃えつきた地図」がたどり着いた地点から「箱男」はスタートしている。
名前がない、匿名の存在としての箱男が他者に対してできることは見つめることだけだ。それは普段は何事もない。しかし、ひとたびその視線を意識するや、たちまち人は視線に絡み取られてしまう。一方的に見られることに耐えられなくなってしまうからだ。「箱男」はまず“見る/見られる”の物語として読むことができる。
また「箱男」は“書いているのは誰か”をめぐる物語でもある。匿名の存在として箱男はある。しかし匿名ということは誰とでも入れ替わることができるということだ。偽箱男が登場してから、この“書いているのは誰か”のテーマはぐっと浮上してくる。一応“ぼく”という語り手が書いた手記を読者は読んでいくのだが、そこに新聞記事、写真とそのキャプチャー、手記への書き込み、供述書やエピソードといったテキストが差し挿まれ、語り手と時系列が交錯する。
このテキストを書いているのは誰か。それを読んでいる「ぼく」はいったいどの「ぼく」なのか。書いている「ぼく」は登場人物を見ている一方で、他の「ぼく」によって書かれ、見られている。こうして“見る/見られる”のテーマと“書いているのは誰か”のテーマが重なり、作中人物も読者も共に箱という「百の知恵の輪をつなぎ合せたような迷路」をもがきさまようことになる。これがこの小説を読む醍醐味ではないだろうか。
物語は「救急車のサイレンが聞こえてきた」の一文で不意に幕を下ろされる。しかし迷路に出口はない。「箱男」がたどり着いた地点から次作はスタートするのを読者は予感するだろう。果たして次作「密会」は突然妻が救急車で連れ去られたところから幕を開けるのだ。