本の森/音の海

本と音楽についてのノート

安部公房「箱男」

 

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)

 

 

前作「燃えつきた地図」の主人公は物語の最後に名前を失い、失踪者となった。

そして「箱男」の語り手は物語のはじめから名前を失った存在となっている。また、箱男は通常は他人に意識されない存在として描かれているので、失踪者であるといえるだろう。

「燃えつきた地図」がたどり着いた地点から「箱男」はスタートしている。

 

名前がない、匿名の存在としての箱男が他者に対してできることは見つめることだけだ。それは普段は何事もない。しかし、ひとたびその視線を意識するや、たちまち人は視線に絡み取られてしまう。一方的に見られることに耐えられなくなってしまうからだ。「箱男」はまず“見る/見られる”の物語として読むことができる。

 

また「箱男」は“書いているのは誰か”をめぐる物語でもある。匿名の存在として箱男はある。しかし匿名ということは誰とでも入れ替わることができるということだ。偽箱男が登場してから、この“書いているのは誰か”のテーマはぐっと浮上してくる。一応“ぼく”という語り手が書いた手記を読者は読んでいくのだが、そこに新聞記事、写真とそのキャプチャー、手記への書き込み、供述書やエピソードといったテキストが差し挿まれ、語り手と時系列が交錯する。

 

このテキストを書いているのは誰か。それを読んでいる「ぼく」はいったいどの「ぼく」なのか。書いている「ぼく」は登場人物を見ている一方で、他の「ぼく」によって書かれ、見られている。こうして“見る/見られる”のテーマと“書いているのは誰か”のテーマが重なり、作中人物も読者も共に箱という「百の知恵の輪をつなぎ合せたような迷路」をもがきさまようことになる。これがこの小説を読む醍醐味ではないだろうか。

 

物語は「救急車のサイレンが聞こえてきた」の一文で不意に幕を下ろされる。しかし迷路に出口はない。「箱男」がたどり着いた地点から次作はスタートするのを読者は予感するだろう。果たして次作「密会」は突然妻が救急車で連れ去られたところから幕を開けるのだ。