本の森/音の海

本と音楽についてのノート

石川淳「天門」(1)

 

天門

天門

 

 石川淳が完結させた最後の長編。連載完結が1985年だから、実に86歳のときの作品。この後エッセイ集「夷斎風雅」を挟んで、未完に終わった長編「蛇の歌」に至るまで、最後まで絶えることなく創作を続けたことに、やはり驚かざるを得ない。

文章の切れ味やスピード感にいささかの衰えもないことは、書き出しの部分を読むだけでもあきらかだろう。

 あるきながら枇杷を一つ食つて吐き出すと、たねは道の泥の中に消えた。雨あがりの道にところどころぬかるみがある。東吉はゴム靴をはいた小さい足でそこをぴちやぴちや踏みわたつた。また枇杷を食ふ。またたねを吐く。たねは三つ四つ五つと地にふつ飛んで、つよい日光の下に、見るそばから芽が出て、花が咲き、實がなつて、たちまち果樹園がひらけたやうであつた。くだもの屋の店で買つて來た枇杷は紙袋の底にまだすこし殘つてゐる。こどもはひとりで機嫌がよかつた。さう。東吉はこれを五歳のときとおぼえてゐる。

 

 小気味よいテンポで連なるセンテンスを追っていくうちに、あっというまに目の前に果樹園のヴィジョンが広がっていく。

また、印象的だったのは性愛の描写で、こうした表現には他にお目にかかったことがない。匠の技だ。

行手に雲の湧くところ、風はげしく、雷遠く、白蛇がうねつて舞ひのぼつた。谷の水がさわげば鹿が胡弓をひき、峰の花が散れば兔が太鼓をたたく。梢には雀がさえずり、草には虫が鳴く。舟は瀬にゆらぎ、瀬は波を揚げて、落ちかかる瀧のいきほひは堰をやぶり、河にとどろき、海に入つては音は絶えない。天地震動。波は高く低くみだれ、舟はあへぎつつただよふ。やうやく難所を乗切つて、沖は晴れた。かなたの空に、日は炎のやうにかがやいて、浮かれ烏のむれが羽根をひろげていた。波しづまつて、舟はうつらうつらとながれた。 

 こうした表現に舌を巻きつつも、当時のぼくは「狂風記」や「荒魂」、「紫苑物語」といった代表作に比べて、いささかパワーが足りないのではないか、と思っていた。

ただ、久しぶりに再読して、いろいろ考えさせられることがあり、これは石川淳が新たな地平へ向かって歩みだした作品だとの思いに至ったので、これから少しずつその理由を書き留めていきたい。