本の森/音の海

本と音楽についてのノート

石川淳「天門」(2)

石川淳は、かつて朝日新聞に連載した文芸時評の中で、吉田健一の長編「絵空ごと」を取り上げて、

 

ここに至つて、わたしはどうも新版の桃花源記を読まされたのではないかとおもつた。いにしへの桃源は人間が無為孤独にして自然の中に見つけるものであつたが、今日では自然が手狭になつたため、人間みづから人智をつくし人工をかさねてこれを都会のまんなかに作り出さなくてはならぬのかも知れない。

 

 と評した後、以下のようにつけ加えた。

このサロンには女性もあらはれるが、これはどうも男性の同類といふ嫌疑があつて、うつかり手もにぎれまい。(中略)すでに人工の新館が建つたのだから、ここに然るべきものを迎へてもよさそうにおもふ。エロスである。 

では、 この吉田健一的小説空間に「エロス」を加えるとどうなるのか。ぼくの考えでは、これを試みた作家がふたりいる。一人は「桂子さん」ものにシフトした倉橋由美子、そしてもうひとりが「天門」の石川淳だ。

狂風記」や前作「六道遊行」での伝奇・歴史的要素からいったん離れ、新たな作品を構想したときに、吉田健一の小説を意識したところがかなりあったのでは・・・というのがぼくの仮説。

現代社会を背景に主人公をめぐって多彩な人物が交流し、女性とは「エロス」な関係も持ちながら「天門」の物語は進んでいく。しかし、この試みによって石川淳はこれまで彼の物語を推進してきた大きな要素を手放さざるを得なかったと思う。すなわち「敵」の存在である。