本の森/音の海

本と音楽についてのノート

石川淳「天門」(4)

幼少期の罪の意識に囚われ続けていた遠矢東吉を解放したのは、幼馴染だった房子との一夜の愛だった・・・とまとめてしまうと陳腐なロマンスに見えてしまうだろうか。

しかし、ここで描かれた救済は「本来の自己を取り戻す」とか「魂が成長する」ものとは似て非なるものであることに注意しなくてはならない。初読のときはここが掴みきれていなかった。

ここでタイトルである「天門」について考えてみる。本書冒頭にもエピグラムとして掲げられているが、このタイトルは老子の一節「天門開闔、能為雌乎」から取られている。これを天下の治乱のこととして読む解釈もあるようだが、本作ではむしろ、荘子の一節「天門とは、無有なり、万物は無有より出ず。」として受け取るべきだと思う。万物が生じる根源としての「無」が天門であり、それは「雌」なのだ。万物を飲み込み、新たな生を生み出す地母神的な存在として、この作品では女性が描かれている。

(1)で引用した性愛の描写を再掲する。

行手に雲の湧くところ、風はげしく、雷遠く、白蛇がうねつて舞ひのぼつた。谷の水がさわげば鹿が胡弓をひき、峰の花が散れば兔が太鼓をたたく。梢には雀がさえずり、草には虫が鳴く。舟は瀬にゆらぎ、瀬は波を揚げて、落ちかかる瀧のいきほひは堰をやぶり、河にとどろき、海に入つては音は絶えない。天地震動。波は高く低くみだれ、舟はあへぎつつただよふ。やうやく難所を乗切つて、沖は晴れた。かなたの空に、日は炎のやうにかがやいて、浮かれ烏のむれが羽根をひろげていた。波しづまつて、舟はうつらうつらとながれた。  

  なぜ性愛がこのように描写されなくてはならなかったのか、ここまでくれば明らかだろう。現代社会の風俗を描きつつも森羅万象の根元たるエロスを中心としたコズミックな世界観を浮き上がらせようとしたのが、本作で石川淳が試みたことだった。この主題は石川淳の作品に底流として存在していたと思う。しかし改めて読み直してみると、本作では「敵」の存在や伝奇的意匠がほどこされていない分、このテーマが他の作品よりあらわになっていると感じた。

未完の遺作となった「蛇の歌」は本作より生命力に満ちた作品となっている。本作での「罪の意識」も捨てたのがその大きな理由となっていると思う。石川淳は最後までその歩みを―石川ファンにおなじみの表現を使うなら「精神の運動」を―とめない作家だった。

(この項おわり)