The Beatniks 「NIGHT OF THE BEAT GENERATION」
彼らの現在の充実ぶりを伝えてくれるライヴ・アルバム。
ビート二クスが結成されてから38年になったが、ここにきてキャリアハイといえる活躍ぶりをみせてくれるのは本当にうれしい。
ビート二クスの1st『出口主義』は同時期に幸宏さん、慶一さんがそれぞれ属していたYMO『テクノデリック』とムーンライダーズ『マニア・マニエラ』の延長線上にある硬質のサウンドを聴かせてくれた傑作だった。続く『ビートで行こう!』は一転して彼らの優れたソングライターとしての側面を際立たせた、これまた傑作。ザ・バンドとプロコル・ハルムのカヴァーも味わい深かった。
21世紀になってリリースされた3rd『MRI』は“天国”をテーマにした楽曲が並んだ。ただ、個人的には『出口主義』路線と『ビートで行こう』路線の曲がうまく溶け合っていない感触があるのが残念だった。一つひとつの曲はもちろん彼らにしか創れない世界を築いているのだけど。
4th『LAST TRAIN TO EXITOWN 』は実に10年ぶりとなった2011年に発表されたアルバム。震災の空気を反映した内省的なエレクトロニカ・アルバムで、楽曲自体は地味な印象があったけど、胸にしみいるような音楽だった。改めて聴き返すと、もっと慶一さんの色が強くてもいいかなと思ったりするのだが、当時のインタビューを読むと2人のコラボレーションが自在の境地に達しているのがうかがえて興味深いものがある。
そして、現時点でのスタジオ録音最新作「EXITENTALIST A XIE XIE」は円熟とユーモア、より深みを増した世界観とサウンドがたっぷりと堪能できる傑作となった。このアルバムをひっさげたライヴの模様をMCを除いて完全収録したのが本作となる。
ふーっ、前置きが長くなってしまった。ともあれこのライヴ・アルバムはビート二クスの歩みの集大成であり、かつ現在進行形の勢いが堪能できる充実した作品だと思う。なんといっても今のビート二クスには観客を乗せることができる「シェー・シェー・シェー・DA・DA・DA・Yeah・Yeah・Yeah・Ya・Ya・Ya」があるのが強みだ。重厚感ある「Dohro Niwa」から「シェー・シェー・シェー・・・」へ続く流れは後半の山場にふさわしい盛り上がりになっている。
また、これまでの楽曲が新たなバンド・アレンジを施されて演奏されるのが嬉しいし、矢口さんとゴンドウトモヒコさんによるホーン・サウンドが新鮮で、ライヴならではの躍動感を伝えてくれる。これまでそれぞれのソロアルバムでしか披露されていなかった「LEFT BANK」が ついにビート二クスとして歌われたのも感慨深いものがある。書く順序が逆になったけど、前半のクライマックスは「Now&Then」~「Common Man」そして「Left Bank」と続くところだ。
CD2枚組のヴォリュームだけど、あっというまに聴き終えたように感じる熱気と密度がつまったアルバムだ。眼福ユウコさんによるイラストのジャケットは、その雰囲気をライヴ会場に行けなかった人にも伝えてくれる素晴らしいもの。
石川淳「天門」(4)
幼少期の罪の意識に囚われ続けていた遠矢東吉を解放したのは、幼馴染だった房子との一夜の愛だった・・・とまとめてしまうと陳腐なロマンスに見えてしまうだろうか。
しかし、ここで描かれた救済は「本来の自己を取り戻す」とか「魂が成長する」ものとは似て非なるものであることに注意しなくてはならない。初読のときはここが掴みきれていなかった。
ここでタイトルである「天門」について考えてみる。本書冒頭にもエピグラムとして掲げられているが、このタイトルは老子の一節「天門開闔、能為雌乎」から取られている。これを天下の治乱のこととして読む解釈もあるようだが、本作ではむしろ、荘子の一節「天門とは、無有なり、万物は無有より出ず。」として受け取るべきだと思う。万物が生じる根源としての「無」が天門であり、それは「雌」なのだ。万物を飲み込み、新たな生を生み出す地母神的な存在として、この作品では女性が描かれている。
(1)で引用した性愛の描写を再掲する。
行手に雲の湧くところ、風はげしく、雷遠く、白蛇がうねつて舞ひのぼつた。谷の水がさわげば鹿が胡弓をひき、峰の花が散れば兔が太鼓をたたく。梢には雀がさえずり、草には虫が鳴く。舟は瀬にゆらぎ、瀬は波を揚げて、落ちかかる瀧のいきほひは堰をやぶり、河にとどろき、海に入つては音は絶えない。天地震動。波は高く低くみだれ、舟はあへぎつつただよふ。やうやく難所を乗切つて、沖は晴れた。かなたの空に、日は炎のやうにかがやいて、浮かれ烏のむれが羽根をひろげていた。波しづまつて、舟はうつらうつらとながれた。
なぜ性愛がこのように描写されなくてはならなかったのか、ここまでくれば明らかだろう。現代社会の風俗を描きつつも森羅万象の根元たるエロスを中心としたコズミックな世界観を浮き上がらせようとしたのが、本作で石川淳が試みたことだった。この主題は石川淳の作品に底流として存在していたと思う。しかし改めて読み直してみると、本作では「敵」の存在や伝奇的意匠がほどこされていない分、このテーマが他の作品よりあらわになっていると感じた。
未完の遺作となった「蛇の歌」は本作より生命力に満ちた作品となっている。本作での「罪の意識」も捨てたのがその大きな理由となっていると思う。石川淳は最後までその歩みを―石川ファンにおなじみの表現を使うなら「精神の運動」を―とめない作家だった。
(この項おわり)
石川淳「天門」(3)
青年弁護士の遠矢東吉は、幼少のころ犯した罪の意識を背負いながら日々を過ごしている。5歳のころ、盗み癖のやまなかった東吉を諫めた後、縊死をとげた祖母の足に抱きついたのが、かえってその死を早めてしまったのではないかという思いが、形見として残された水心子の懐剣と共に、彼にまとわりついて離れない。
弁護士になってからもしばらくは酒場に入り浸っているのが常だった東吉だったが、ある日、死んだ父の友人だった弁護士から、村越汽船の新規事業の顧問に就任することを求められてから、にわかに運命が動き出す・・・。というのが本作の流れ。
事業関係者、アジアからの留学生、遠い親戚の娘、同級生たちなどの多彩な人物の関係の網の目が東吉を中心に張り巡らされ、物語が進んでいくのだが、本作にはかつて石川の中・長編の多くで物語を推進させる原動力として機能していた、打ち倒すべき「敵」の存在がない。そのため初読のときには、これまでの作品と比べてパワーが足りないように感じたのだと思う。ことあるごとに己の罪の意識をノートに書きつける東吉が、弱弱しく思えてしまったのだ。
石川淳はなぜ「敵」の存在をなくしたのか。簡単に解ける問いではないだろうけど、理由のひとつとして時代背景の変化があるのかもしれない。巨大な敵をアウトサイダーが打ち倒す構図が80年代中期の日本の空気にそぐわないと判断したのか、そのテーマは大作「狂風記」でやりつくしたという思いがあったのか・・・。その両方かもしれない。そして、新たなスタイルを試みるにあたり、ひとつのモデルとしたのが吉田健一の小説ではないだろうかと思う。
では、「天門」で敵の存在に代わって物語を推進する力となったのはなにか。
石川淳「天門」(2)
石川淳は、かつて朝日新聞に連載した文芸時評の中で、吉田健一の長編「絵空ごと」を取り上げて、
ここに至つて、わたしはどうも新版の桃花源記を読まされたのではないかとおもつた。いにしへの桃源は人間が無為孤独にして自然の中に見つけるものであつたが、今日では自然が手狭になつたため、人間みづから人智をつくし人工をかさねてこれを都会のまんなかに作り出さなくてはならぬのかも知れない。
と評した後、以下のようにつけ加えた。
このサロンには女性もあらはれるが、これはどうも男性の同類といふ嫌疑があつて、うつかり手もにぎれまい。(中略)すでに人工の新館が建つたのだから、ここに然るべきものを迎へてもよさそうにおもふ。エロスである。
では、 この吉田健一的小説空間に「エロス」を加えるとどうなるのか。ぼくの考えでは、これを試みた作家がふたりいる。一人は「桂子さん」ものにシフトした倉橋由美子、そしてもうひとりが「天門」の石川淳だ。
「狂風記」や前作「六道遊行」での伝奇・歴史的要素からいったん離れ、新たな作品を構想したときに、吉田健一の小説を意識したところがかなりあったのでは・・・というのがぼくの仮説。
現代社会を背景に主人公をめぐって多彩な人物が交流し、女性とは「エロス」な関係も持ちながら「天門」の物語は進んでいく。しかし、この試みによって石川淳はこれまで彼の物語を推進してきた大きな要素を手放さざるを得なかったと思う。すなわち「敵」の存在である。
石川淳「天門」(1)
石川淳が完結させた最後の長編。連載完結が1985年だから、実に86歳のときの作品。この後エッセイ集「夷斎風雅」を挟んで、未完に終わった長編「蛇の歌」に至るまで、最後まで絶えることなく創作を続けたことに、やはり驚かざるを得ない。
文章の切れ味やスピード感にいささかの衰えもないことは、書き出しの部分を読むだけでもあきらかだろう。
あるきながら枇杷を一つ食つて吐き出すと、たねは道の泥の中に消えた。雨あがりの道にところどころぬかるみがある。東吉はゴム靴をはいた小さい足でそこをぴちやぴちや踏みわたつた。また枇杷を食ふ。またたねを吐く。たねは三つ四つ五つと地にふつ飛んで、つよい日光の下に、見るそばから芽が出て、花が咲き、實がなつて、たちまち果樹園がひらけたやうであつた。くだもの屋の店で買つて來た枇杷は紙袋の底にまだすこし殘つてゐる。こどもはひとりで機嫌がよかつた。さう。東吉はこれを五歳のときとおぼえてゐる。
小気味よいテンポで連なるセンテンスを追っていくうちに、あっというまに目の前に果樹園のヴィジョンが広がっていく。
また、印象的だったのは性愛の描写で、こうした表現には他にお目にかかったことがない。匠の技だ。
行手に雲の湧くところ、風はげしく、雷遠く、白蛇がうねつて舞ひのぼつた。谷の水がさわげば鹿が胡弓をひき、峰の花が散れば兔が太鼓をたたく。梢には雀がさえずり、草には虫が鳴く。舟は瀬にゆらぎ、瀬は波を揚げて、落ちかかる瀧のいきほひは堰をやぶり、河にとどろき、海に入つては音は絶えない。天地震動。波は高く低くみだれ、舟はあへぎつつただよふ。やうやく難所を乗切つて、沖は晴れた。かなたの空に、日は炎のやうにかがやいて、浮かれ烏のむれが羽根をひろげていた。波しづまつて、舟はうつらうつらとながれた。
こうした表現に舌を巻きつつも、当時のぼくは「狂風記」や「荒魂」、「紫苑物語」といった代表作に比べて、いささかパワーが足りないのではないか、と思っていた。
ただ、久しぶりに再読して、いろいろ考えさせられることがあり、これは石川淳が新たな地平へ向かって歩みだした作品だとの思いに至ったので、これから少しずつその理由を書き留めていきたい。
ドーナル・ラニー「クールフィン」
- アーティスト: ドーナル・ラニー・クールフィン,マレード・ニ・ゴーナル,エディ・リーダー,マールタ・シェベスチェーン,トゥリーナ・ニ・ゴーナル
- 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
- 発売日: 1998/08/07
- メディア: CD
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アイリッシュ・トラッド界の重鎮、ドーナル・ラニーによる、ソロ名義としては唯一のアルバム。購入した当初はあまりピンとこなかったけど、先日ふと思い立って聴き返してみたら、いやはや素晴らしいアルバムではないですか。最近では通勤音楽として手放せない存在となった。
かつてピンとこなかったのは、おそらくコンテンポラリーな要素があまりにも自然に盛り込まれていて、スムーズな聴き心地となっていたので、当時の自分にはひっかかりを感じることがなかったからだろう。そして、そのピンとこなかった理由が今ではくるりと反転して、大きな長所として感じられる。
エディ・リーダーをはじめとするゲスト・ヴォーカル陣も魅力的だし、インスト・ナンバーとのバランスもよい。伝統と現代的な要素が溶け合った傑作。
5月の文庫新刊チェック
来月刊行予定の文庫から気になるものを抜き出してみた。出版社の順番は五十音順。
岩波文庫
「三島由紀夫スポーツ論集」がちょっと気になる。井筒俊彦が立て続けに文庫化されているのはうれしいけど、いつ読めることやら。
角川文庫
涼宮ハルヒシリーズの移籍も一段落。新作が出る日は来るのだろうか。
角川ソフィア文庫
宇野弘蔵・大島清ほかの「経済学」(上・下)。気になるけど読むことはないだろうな。
河出文庫
「日本の偽書」は文春新書で刊行されていたのを文庫化したものかな。吉田秀和「グレン・グールド」は要チェック。
講談社学術文庫
ベルクソン「物質と記憶」の新訳がまた出る。これが決定版になるか?
集英社文庫
おー、「世界の辺境とハードボイルド室町時代」!久しぶりに集英社文庫で要チェック。
小学館文庫
佐藤優・片山杜秀の「平成史」がもう文庫に。時期的にはタイムリーだけど、まだ単行本刊行から1年くらいしか経っていないのでは。内容はすこぶる面白いけど。
中公文庫
今月の目玉はここ。手塚富雄訳の「ファウスト」待望の復刊!個人的に「ファウスト」の翻訳ではこの手塚訳が一番お勧めできる。池内訳は分かりやすくしようとしすぎていて、なんだか物足りないので。
文春文庫