本の森/音の海

本と音楽についてのノート

石川淳「天門」(3)

青年弁護士の遠矢東吉は、幼少のころ犯した罪の意識を背負いながら日々を過ごしている。5歳のころ、盗み癖のやまなかった東吉を諫めた後、縊死をとげた祖母の足に抱きついたのが、かえってその死を早めてしまったのではないかという思いが、形見として残された水心子の懐剣と共に、彼にまとわりついて離れない。

弁護士になってからもしばらくは酒場に入り浸っているのが常だった東吉だったが、ある日、死んだ父の友人だった弁護士から、村越汽船の新規事業の顧問に就任することを求められてから、にわかに運命が動き出す・・・。というのが本作の流れ。

事業関係者、アジアからの留学生、遠い親戚の娘、同級生たちなどの多彩な人物の関係の網の目が東吉を中心に張り巡らされ、物語が進んでいくのだが、本作にはかつて石川の中・長編の多くで物語を推進させる原動力として機能していた、打ち倒すべき「敵」の存在がない。そのため初読のときには、これまでの作品と比べてパワーが足りないように感じたのだと思う。ことあるごとに己の罪の意識をノートに書きつける東吉が、弱弱しく思えてしまったのだ。

石川淳はなぜ「敵」の存在をなくしたのか。簡単に解ける問いではないだろうけど、理由のひとつとして時代背景の変化があるのかもしれない。巨大な敵をアウトサイダーが打ち倒す構図が80年代中期の日本の空気にそぐわないと判断したのか、そのテーマは大作「狂風記」でやりつくしたという思いがあったのか・・・。その両方かもしれない。そして、新たなスタイルを試みるにあたり、ひとつのモデルとしたのが吉田健一の小説ではないだろうかと思う。

 

では、「天門」で敵の存在に代わって物語を推進する力となったのはなにか。

 

 

 

石川淳「天門」(2)

石川淳は、かつて朝日新聞に連載した文芸時評の中で、吉田健一の長編「絵空ごと」を取り上げて、

 

ここに至つて、わたしはどうも新版の桃花源記を読まされたのではないかとおもつた。いにしへの桃源は人間が無為孤独にして自然の中に見つけるものであつたが、今日では自然が手狭になつたため、人間みづから人智をつくし人工をかさねてこれを都会のまんなかに作り出さなくてはならぬのかも知れない。

 

 と評した後、以下のようにつけ加えた。

このサロンには女性もあらはれるが、これはどうも男性の同類といふ嫌疑があつて、うつかり手もにぎれまい。(中略)すでに人工の新館が建つたのだから、ここに然るべきものを迎へてもよさそうにおもふ。エロスである。 

では、 この吉田健一的小説空間に「エロス」を加えるとどうなるのか。ぼくの考えでは、これを試みた作家がふたりいる。一人は「桂子さん」ものにシフトした倉橋由美子、そしてもうひとりが「天門」の石川淳だ。

狂風記」や前作「六道遊行」での伝奇・歴史的要素からいったん離れ、新たな作品を構想したときに、吉田健一の小説を意識したところがかなりあったのでは・・・というのがぼくの仮説。

現代社会を背景に主人公をめぐって多彩な人物が交流し、女性とは「エロス」な関係も持ちながら「天門」の物語は進んでいく。しかし、この試みによって石川淳はこれまで彼の物語を推進してきた大きな要素を手放さざるを得なかったと思う。すなわち「敵」の存在である。

石川淳「天門」(1)

 

天門

天門

 

 石川淳が完結させた最後の長編。連載完結が1985年だから、実に86歳のときの作品。この後エッセイ集「夷斎風雅」を挟んで、未完に終わった長編「蛇の歌」に至るまで、最後まで絶えることなく創作を続けたことに、やはり驚かざるを得ない。

文章の切れ味やスピード感にいささかの衰えもないことは、書き出しの部分を読むだけでもあきらかだろう。

 あるきながら枇杷を一つ食つて吐き出すと、たねは道の泥の中に消えた。雨あがりの道にところどころぬかるみがある。東吉はゴム靴をはいた小さい足でそこをぴちやぴちや踏みわたつた。また枇杷を食ふ。またたねを吐く。たねは三つ四つ五つと地にふつ飛んで、つよい日光の下に、見るそばから芽が出て、花が咲き、實がなつて、たちまち果樹園がひらけたやうであつた。くだもの屋の店で買つて來た枇杷は紙袋の底にまだすこし殘つてゐる。こどもはひとりで機嫌がよかつた。さう。東吉はこれを五歳のときとおぼえてゐる。

 

 小気味よいテンポで連なるセンテンスを追っていくうちに、あっというまに目の前に果樹園のヴィジョンが広がっていく。

また、印象的だったのは性愛の描写で、こうした表現には他にお目にかかったことがない。匠の技だ。

行手に雲の湧くところ、風はげしく、雷遠く、白蛇がうねつて舞ひのぼつた。谷の水がさわげば鹿が胡弓をひき、峰の花が散れば兔が太鼓をたたく。梢には雀がさえずり、草には虫が鳴く。舟は瀬にゆらぎ、瀬は波を揚げて、落ちかかる瀧のいきほひは堰をやぶり、河にとどろき、海に入つては音は絶えない。天地震動。波は高く低くみだれ、舟はあへぎつつただよふ。やうやく難所を乗切つて、沖は晴れた。かなたの空に、日は炎のやうにかがやいて、浮かれ烏のむれが羽根をひろげていた。波しづまつて、舟はうつらうつらとながれた。 

 こうした表現に舌を巻きつつも、当時のぼくは「狂風記」や「荒魂」、「紫苑物語」といった代表作に比べて、いささかパワーが足りないのではないか、と思っていた。

ただ、久しぶりに再読して、いろいろ考えさせられることがあり、これは石川淳が新たな地平へ向かって歩みだした作品だとの思いに至ったので、これから少しずつその理由を書き留めていきたい。

ドーナル・ラニー「クールフィン」

 

ドーナル・ラニー・クールフィン

ドーナル・ラニー・クールフィン

 

 アイリッシュ・トラッド界の重鎮、ドーナル・ラニーによる、ソロ名義としては唯一のアルバム。購入した当初はあまりピンとこなかったけど、先日ふと思い立って聴き返してみたら、いやはや素晴らしいアルバムではないですか。最近では通勤音楽として手放せない存在となった。

かつてピンとこなかったのは、おそらくコンテンポラリーな要素があまりにも自然に盛り込まれていて、スムーズな聴き心地となっていたので、当時の自分にはひっかかりを感じることがなかったからだろう。そして、そのピンとこなかった理由が今ではくるりと反転して、大きな長所として感じられる。

エディ・リーダーをはじめとするゲスト・ヴォーカル陣も魅力的だし、インスト・ナンバーとのバランスもよい。伝統と現代的な要素が溶け合った傑作。

 

5月の文庫新刊チェック

来月刊行予定の文庫から気になるものを抜き出してみた。出版社の順番は五十音順。

文庫発売日一覧 | ほんのひきだし

岩波文庫

三島由紀夫スポーツ論集」がちょっと気になる。井筒俊彦が立て続けに文庫化されているのはうれしいけど、いつ読めることやら。

角川文庫

涼宮ハルヒシリーズの移籍も一段落。新作が出る日は来るのだろうか。

角川ソフィア文庫 

宇野弘蔵・大島清ほかの「経済学」(上・下)。気になるけど読むことはないだろうな。

 河出文庫

 「日本の偽書」は文春新書で刊行されていたのを文庫化したものかな。吉田秀和グレン・グールド」は要チェック。

講談社学術文庫

ベルクソン物質と記憶」の新訳がまた出る。これが決定版になるか?

 集英社文庫

 おー、「世界の辺境とハードボイルド室町時代」!久しぶりに集英社文庫で要チェック。

小学館文庫

佐藤優片山杜秀の「平成史」がもう文庫に。時期的にはタイムリーだけど、まだ単行本刊行から1年くらいしか経っていないのでは。内容はすこぶる面白いけど。

中公文庫

  今月の目玉はここ。手塚富雄訳の「ファウスト」待望の復刊!個人的に「ファウスト」の翻訳ではこの手塚訳が一番お勧めできる。池内訳は分かりやすくしようとしすぎていて、なんだか物足りないので。

文春文庫

倉橋由美子訳の「星の王子さま」が出る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

郡司ペギオ幸夫「天然知能」(2)

 

 

 なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる 西行

 

天然知能 (講談社選書メチエ)

天然知能 (講談社選書メチエ)

 

 当初は各省ごとにまとめと感想を書く予定だったけど、なかなか時間がとれないので、全体を通して読んだ感想をざっくりと。

面白かったかどうか、と聞かれれば面白かったと答える。けれども書かれていることを全てすずしく飲み込むことができたか、となるとそうはいかない読書だった。

さて、この本ではまず知能の3つの様態が述べられている。まずは自分が知覚できたデータのみを対象とする一人称の「人工知能」。次に「自然科学的思考一般」であり、謎や問題として把握されたものに興奮し、それを理解しなくては気がすまない三人称の「自然知能」。そして世界をあるがままに受け入れ、自分を外に開いていくのが、本書の主題である一・五人称の「天然知能」となる。

人工知能と自然知能の共通点はどちらも世界を己の内部化し、データとして集積する点とにある。そうなるとデータ化の速度においては人工知能の方が圧倒的なので、自然知能はかなわない。そこで「外部に踏み込み、その外部を招き入れることで、物事の理解を実現する」天然知能こそが人工知能と自然知能の対立を乗り越えるありようとなる。

 外部は知覚できないけれど、確かにあると感じられるもの。それにいかに自分を開いて世界を感じ取っていくのがこれからの人間の知性の在り方ではないかというのが著者のメッセージとして受け取った。冒頭に引用した西行の和歌など、まさに天然知能を詠んだものとはいえないだろうか。

 この認識を出発点として、著者は天然知能の概念をぐっと拡大し、掘り下げていく。とりわけ終盤で述べられる、自由意志・決定論・局所性がトリレンマの関係にあるとして、意識の構造の解明に踏み込んでいくくだりは、難解ながらもスリリングな展開だった。

とても示唆に満ちた内容の本なのだけど、最初に触れたように自分の中で少し引っかかっていることがある。外部についての説明を読んだときに、すぐ思い浮かんだのは「無意識」と「神」のことだった(こうして謎を自分の知っているものに置換して理解しようとするのは、はなはだ「自然知能」的なのだけど・・・)。

「無意識」についてはある程度の答えが本書に語られていると思う。そうなると「神」はどうなるか。信仰というのは人間が古来から積み重ねてきた「天然知能」の方法であるのではないか。このことが読んでいる途中からずっと気持ちの中に残っている。先に、すずしく飲み込むことができたとは言えないと書いたのはこの問題があるからだ。

とはいえ、これは不満ではない。著者から与えられた宿題のようなものだ。これからじっくりと考えていくことにしよう。

 

3月の読書

月の後半から仕事が忙しくなってきたので更新が滞ってますが、面白い本にはいろいろ出会ってるので、なるべく記録として残しておきたいですね。

「天然知能」はもうすぐ読了。

先月の読書メーター 読んだ本の数:9冊 読んだページ数:2700ページ ナイス数:0ナイス ★先月に読んだ本一覧はこちら→ https://bookmeter.com/users/10822/summary/monthly