本の森/音の海

本と音楽についてのノート

細野晴臣「HOCHONO HOUSE」

 

HOCHONO HOUSE<CD>

HOCHONO HOUSE<CD>

 

 

思えば2005年のハイドパーク・フェスが始まりだったのだろう。

かねてから“習作”と公言していたの曲を、奇跡的に豪雨があがった狭山のステージで歌ったとき、細野さんは歌うことの楽しさに目覚めたという。そして、いつかこのアルバムを歌の楽しさを知った今の自分に『HOSONO HOUSE』よってつくり直してみたい、という気持ちが胸中に芽生えたのではないだろうか。

 

それから15年近くの歳月を経て、『HOSONO HOUSE』を全面的にリメイクした、この『HOCHONO HOUSE』が届けられた。

この間、細野さんは信頼できるメンバーとアンサンブルを磨いて、ライブの積極的に行っていた。そこで聴けるカバーを中心としたブギ・ウギは心地よく、にこやかに楽しめるものだった。

とはいえ、ストラヴィンスキーもかくやと思わせる、かつての変幻ぶりを知っている身としては、そろそろ違う路線を・・・と思っていたのも確か。だから本作が細野さんひとりで制作されているというニュースを知ったときは我が意を得た思いだった。

 

はたして本作はこれまでの路線と一線を画しながらも、細野さんでなくてはつくれないチャーミングなアルバムとなっている。本人の解説を読むとかなり制作には難航したらしいのだが、その苦労を感じさせない、肩ひじ張らない音楽だ。ぱっと聴いたときはシンプルに響くサウンドも聴き込むとじわじわとうま味がにじんでくる。打ち込みの曲ではファンクネスを感じさせるのもうれしい。他にも過去のライヴ音源あり、インストに改変した曲あり、歌詞を一部変えた曲ありと様々なことを試みているのだけど、一貫して流れているのは細野さんならではのユーモアとぬくもりだ。そして何より、穏やかさを湛えた歌が良い。

 

本作は細野さんのヴォーカル路線の到達点であるとともに、新たな出発点となるのではないだろうか。トータルタイムが37分なので気軽にリピートしながら、心は早くも細野サウンドの次なる展開を思い描いている。

安部公房「箱男」

 

箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)

 

 

前作「燃えつきた地図」の主人公は物語の最後に名前を失い、失踪者となった。

そして「箱男」の語り手は物語のはじめから名前を失った存在となっている。また、箱男は通常は他人に意識されない存在として描かれているので、失踪者であるといえるだろう。

「燃えつきた地図」がたどり着いた地点から「箱男」はスタートしている。

 

名前がない、匿名の存在としての箱男が他者に対してできることは見つめることだけだ。それは普段は何事もない。しかし、ひとたびその視線を意識するや、たちまち人は視線に絡み取られてしまう。一方的に見られることに耐えられなくなってしまうからだ。「箱男」はまず“見る/見られる”の物語として読むことができる。

 

また「箱男」は“書いているのは誰か”をめぐる物語でもある。匿名の存在として箱男はある。しかし匿名ということは誰とでも入れ替わることができるということだ。偽箱男が登場してから、この“書いているのは誰か”のテーマはぐっと浮上してくる。一応“ぼく”という語り手が書いた手記を読者は読んでいくのだが、そこに新聞記事、写真とそのキャプチャー、手記への書き込み、供述書やエピソードといったテキストが差し挿まれ、語り手と時系列が交錯する。

 

このテキストを書いているのは誰か。それを読んでいる「ぼく」はいったいどの「ぼく」なのか。書いている「ぼく」は登場人物を見ている一方で、他の「ぼく」によって書かれ、見られている。こうして“見る/見られる”のテーマと“書いているのは誰か”のテーマが重なり、作中人物も読者も共に箱という「百の知恵の輪をつなぎ合せたような迷路」をもがきさまようことになる。これがこの小説を読む醍醐味ではないだろうか。

 

物語は「救急車のサイレンが聞こえてきた」の一文で不意に幕を下ろされる。しかし迷路に出口はない。「箱男」がたどり着いた地点から次作はスタートするのを読者は予感するだろう。果たして次作「密会」は突然妻が救急車で連れ去られたところから幕を開けるのだ。

 

細野晴臣「銀河鉄道の夜 特別版」

 

銀河鉄道の夜・特別版

銀河鉄道の夜・特別版

YMO散開後のメンバー3人のソロ活動でもっとも“テクノ”を感じさせたのが細野さんだったのは当時の自分には意外でした。
教授の「音楽図鑑」や幸宏さんの「薔薇色の明日」は今でも愛着のあるアルバムですが、夢中になってリピートしながらも、心の隅では「これはもうテクノとはいえないな」といくばくかの寂寥感がありました。
そうした中、新たにノンスタンダードとモナドの2つのレーベルを立ち上げた細野さんがリリースしたのが「SFX」。ここには、当時の自分が思い浮かべていたテクノ・ポップの進化系がありました。YMO活動時には今ひとつ立ち位置がわからなかった細野さんが、真に自分にとって大切な音楽家となったのはここからだったと今になって思います。
そして85年にリリースされたのが、今回取り上げたアニメ「銀河鉄道の夜」のサントラ盤。猫をキャラクターにして宮沢賢治の世界を表現することに成功したアニメ映画でしたが、細野さんの音楽もまた素晴らしいものでした。ノンスタンダードでのテクノ路線とモナドでのアンビエントの要素が融合されたそのサウンドは、この時期の細野さんの代表作といえるでしょう。
昨年の暮れに届けられた「特別版」は、細野さんが選んだ未収録音源や未発表音源を加えた2枚組です。新たなリマスタリングによって深みを増した音像は新たな魅力を示してくれれています。ブックレットには鈴木総一朗さんによる解説と関係者へのインタビューが収録されていますが、ここで強調されているのが、本作の制作において重要な役割を果たしたコシミハルさんによる楽曲の素晴らしさ。当時の細野さんはドヴォルザークスメタナなど、東欧のクラシックをよく聴いていたそうですが、そうしたヨーロッパ志向とコシさんの音楽性がよく親和したのが本作の味わいを増しているといえるでしょう。
映画音楽の作曲家としての細野さんは「万引き家族」の世界的な成功で改めて注目を集めましたが、その原点のなるのがこの作品。細野さんのキャリアの中でもひとつの節目となる重要作と思います。

 

片山杜秀「歴史という教養」

 

歴史という教養 (河出新書)

歴史という教養 (河出新書)

 

 止むことのない精神の運動としての「温故知新主義」

 

このところ片山杜秀の著書が立て続けに刊行されています。平成を論じた「平成精神史」、クラシックの作曲家を通して世界史をレクチャーする「ベートーヴェンを聴けば世界史がわかる」、その日本の現代音楽版ともいえる大作「鬼子の歌」など、どれも読み応えのあるものばかりです。

 そして目下のところ最新刊であるのが「歴史という教養」。この本はいわば片山流「方法序説」といえるでしょう。歴史にきちんと向き合い、それを生かしていくにはどうすればよいのか?という難問がここでは問われています。この難問に対する片山の出した答えは「温故知新主義」。なんだ当たり前じゃないかと思うなかれ。歴史を学ぶことで、過去とは異なる新しいできごとが起き続けている、この現在そして未来に対処すること、すなわち「温故」を生かして「知新」に賭ける。その力を養うためには、いくつかの落とし穴があるのです。

 その例としてこの本で片山があげているのは歴史に学ぶ姿勢を保ちながらも、ドラスティックな変化を拒絶する「保守主義」であり、手に届かない夢を過去に投影する「ロマン主義」であり、瞬間に熱狂する「ファシズム」などです。
また、全ては繰り返すとうそぶく「反復主義」、どうせこうなると思ってたと開き直る「予定説」、いつか歴史が終わってユートピアがくると信じる「ユートピア主義」などのニヒリズムも「温故知新主義」とは似て非なるものとして退けられます。

こうした数々の陥穽から逃れるためのヒント、歴史を捉える「史観」のパターンが本書の後半で語られます。これらについてはぜひ本書を手にとって確認して欲しいところ。

 将棋好きの私が思うに「温故知新主義」は将棋に似ているところがあります。歴史とは将棋でいうところの「定跡」です。先人たちが試行錯誤して積み上げてきた知恵がそこにはあります。しかし、実戦では必ず未知の局面が現れます。そこから先は自分のこれまで学んできたことをなぞらず、己の読みによって指し手に賭けることが絶えず要求されていくのです。これと同様に、絶え間なく知新に賭け続けていく精神の運動こそが、「温故知新主義」に他ならないのです。